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音読の効用

2025.09.08
黙読は"才能"である。
"才能"なき者が本を読む"技術"が音読である。

と主張したい。

例えば出版業界の人たちが実際にどの程度本を読んでいるのかは知らないが、おそらく相当に多読に違いない。そういう仕事でなくても、本が好きな人は、基本的に多読だろう。多読でない私が多読の人と話すと、「量ばっかり読んで、どうせ中身読めてないんだろう」とか自分を慰める思考がよぎるが、その人の方がきちんと読めていたりして慰められない。

そこで多読の人たちは読書アスリートなのだと思うことにする。一部の恵まれた肉体を授かった人だけがアスリートになれるのであり、授かってしまった故の人生を歩んでいるのだろう。そうでない私が彼らと同じになろうとすることは無謀だ。しかし、誰だってスポーツを楽しめるように、一般ピープルには一般ピープルに適した読書のあり方があるはずだ。私に適した読み方が音読である。
 一日中家に籠もって全然声を発しないので、リハビリ的な気持ちで始めた音読だったが、数年やってみて、思った以上の効用があったので、お伝えしたい。

まず、黙読の難しさを共有するために、次の例について考えたい。あなたにとって、どちらが簡単だろうか?

Aの方が簡単に感じる人は多いだろう。Bは瞑想やメンタルトレーニングに近いエキスパートの領域で、誰でも簡単にできることではない。精神のコントロールは難しく、その意味で身体をコントロールする方が簡単だ。黙読には似た難しさがあり、音読には似た簡単さがある。

また、こんな例も考えてみる。

  1. 「本を読むぞ」と気持ちを集中させて臨む。
  2. でも全然頭に入ってこない。
  3. なんとなくケータイを見てしまう。
  4. 気がつくとYouTubeを見続けている。

きっと既視感のある人もいるのではないか。この例からも「黙読の難しさ」として、精神を集中させることが関門となることが伺えるだろう。また、黙読は難しいのになぜYouTubeは簡単に続けることができるのか?それはYouTubeは受け身で「おもしろい」という刺激が得られるからだろう。それに比べると本を読むことは文字を解釈して「おもしろい」に変換するスキルと能動性が要求される。

「精神の集中」と「おもしろいの獲得」という2つの難しさを音読によってどうやって乗り越えることができるのか、説明したい。

身体運動であること

先の例が示すとおり、ただ想像を維持するより、実際に身体を動かすことの方が簡単だ。音読は身体を動かす分、読むという"行為"に集中しやすい。ただし"行為"に集中しやすいであって、“内容"に集中しやすいかは別問題なので、注意してほしい。
 音読を始めたころは、まだ慣れないので疲れるばかりで全然読めている感じがしなかった。読むことに脳内リソースを使ってしまうので、読んだ内容が特別頭に入ってくる実感はなかった。次第に慣れてくると脳内リソースを使わずに自動的に読める感じになる。自転車も慣れたら意識せずに乗れるのと同じ感覚だ。ただ自動的に読めるので特別頭に入ってくることもない。うっかりすると、読みながら「そういえば昨日の夕飯の残り早く食べないと」とか考えていたりする。当然そんなことを考えているときは、本の内容は全く頭に入っていない。はっとして本に意識を戻し、読んだところを振り返ると、はっきりと口を動かして発声したはずの文章にもかかわらず、全く読んだ記憶がないことに驚く。

今の所、全然、音読のよさを言えていないが、もう少し読んで欲しい。音読したからと言って、必ずしも集中して内容を読んでいるわけではないものの、やはり音読の方が"行為"に引きづられて、自然と意識が集中する感じがする。脳みそを偏りなく使っている気がして、その分雑念が入りにくいのだと想像している。
 また、声に出すという行為自体に心地よさがある。はじめた頃はたどたどしかったのが、今ではスルスル声が出る。その快感が単純にあるし、それが行為を持続させる。

当然、音読は相当遅いが、「ゆっくり読める」というメリットだと思おう。黙読でゆっくり読むのは、相当な精神力を要するし、特に疲れてくると、文字に目をサッと通しただけで読んだことにしてしまいがちだ。音読は、一定の時間経過しないと読み終えないが、一定の時間経過すれば"着実"に読み終える。この"着実"という感覚は、実際に声を出したことで得られる実感であり、この"着実"をただ繰り返せば、いつか読み終わると思える。
 私は一度に10〜30ページ程度を読み、数日または数週間かけて一冊を読む。逆に見れば、一冊の本を読む時間を少しずつ生活のあちこちに散らしているということだ。その間隔が読解のゆとりを作り、思考の余地を広げる。

ところで「本を読んでいる時間」とは、一体いつのことを指すのだろうか?文字に目を通しているだけできちんと内容が分かっていない場合、「本を読んだ」とは言い難い。むしろ本の言葉が、自分の思考や体験と結びつき、理解が深まるときこそ、「本を読んだ」と言える。
 例えば、本を閉じて、風呂に入って湯船に浸かった瞬間、ふと腑に落ちることがある。あるいは、何日も経ってから、自分の実際の体験と本の内容が重なり合い、「こういうことだったのか」と気づくこともある。そのような時間こそ「本を読んでいる時間」ということになる。その意味での「本を読んでいる時間」のための理想的な読書法とは、文字を効率よく取り込む方法ではなく、言葉の間に自分の体験を置く余地を豊かに作っておけるような読み方、ということになる。
 音読で何日もかけて読むことは、その時間を読書の体験として耕すことになる。

「おもしろい」について

先の「頭の中でA.をやっている自分を30分間想像し続ける」と「黙読をすること」は全然違う行為である。読書は本からの入力がある。それが刺激となって飽きないから、その行為が継続される。ただ同じことを想像し続けるのは刺激がなく飽きるから継続が難しい。つまり黙読は「おもしろい」ならば集中できるし、反対に、おもしろくなければ集中を維持できない。

前節の身体運動の簡単さから、「音読はたとえ"おもしろくなくても"維持できる」ということが導かれる。もう少し耳障り良い表現にすれば、「音読はおもしろくすることが難しい本でも読み続けやすい」ということだ。

あなたの中に「おもしろのつぼみ」があり、それが開花したとき「おもしろい」と感じる、としよう。つまり、あなたが「おもしろい」と思ったとき、その前に、すでに「つぼみ」があったということだ。つぼみまで至るためには、土を耕し、種をまき、肥料をやり、水をやり、という工程があるはずだ。そして、これらの「おもしろい」に至るより前の工程は「おもしろくない」ということになる(この喩えではですよ、念の為。実際は花を育てるどの工程にも楽しさは見いだせるでしょう)。そのように考えると、おもしろくない本を読むことも、自分の中を多種多様で豊かな花を咲かせるために大事だと思える。

本がおもしろくない理由は様々あるだろう。前提となる知識が不足しているのかもしれないし、その本の著者との考えの違いや対話のテンポが合わないとか、あるいは問いの立て方がこちらの思考の流れとずれているとか。言い換えると、自分の中になくて、著者の中にある"何か"がそこにあり、それは自分と著者のそれまでの体験や世界観の違いの現れなのだと考えられる。読書は、そのような自分の外側の何かを獲得するチャンスでもあり、だからこそ労力をかけるだけの価値がある。

もしくは読書をくじ引きみたいなものと捉えてみてはどうか。「あたり」しか入っていないことが分かっていたら、わざわざくじ引きしないだろう。何が入っているか分からない、というところに読書の本質的な楽しみがある。さらに、たとえ今回は花を咲かせない「はずれ」だったとしても、読むことには何かが立ち上がる余地がある。その点で、読書はただのくじ引きではない。
 どうやって「あたり」を引くかだけを考えてしまうと、安易な「おもしろい」に流されてしまう。そうなると、誰でも簡単に咲かせることができる本ばかり読んだり、偏った本しか「おもしろい」と思えなくなる。本当に求めているのは、世界を広げるための読書だろう。「あたり」だったり「はずれ」だったり、おもしろかったり、つまらなかったり、そのプロセス全体が豊かな読書の体験なのだと考えてみてはどうだろうか?音読は、それを粛々と繰り返していくための"技術"なのだ。

ここまで、読んでいただけたら、音読してみようと思えてきた人もいるのではないだろうか?
 最初の内は、本によって音読するか黙読するか切り替えたり、音読しやすそうな本を選んだりして、とにかく音読になれること自体を目的に読んでいた。昔読んだ本をもう一度、今度は音読で読んでみるのもいいかもしれない。今ではフィクションでもノンフィクションでも、ジャンル問わず音読するようになったし、1000ページを超えるような大著でも全部音読で読破できた。逆に音読じゃなかったら、途中で挫折していた気すらする。もちろん、音読が万人向けだとも思わない。本記事があなたに適した読書法を探す一助になれば、幸いである。