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知のGDPと贈本屋

2025.09.12

「本屋のパッセ 定有堂書店で考えたこと」奈良敏行著(作品社)には「本を読むより、本を売るのが楽しい」と書いてあった。それについて、具体的な説明はないけど、この言葉は何度も繰り返し出てくる。自分の中に知を溜め込むことより、知を循環させることの方が楽しいということなのだと自分なりに受け取った。世の中に多くの知が出回って、流通の渦が大きくなるほど、世の中は楽しくなる。その渦の只中にいるのが本屋なのだから、本屋は楽しいというロジック。そのように勝手に解釈し、強く同意した。

物はあげたらなくなるが、知は人に伝えてもなくならない。増える一方だ。「本の流通 ≒ 知の流通」と雑な近似をすれば、流通すればするほど、世界は知で溢れ、私たちは豊かになるだろう。知の流通量の総量を「知のGDP」と呼ぶことにする。

世に多く出回っている「知もどき」はその人に都合のよい慰めでしかないように思える。知というものを明確にしておく必要があるだろう。知人から「思考とはノンと言うことである」という言葉を教えてもらった(ノンはフランス語のNo)。これはフランスの哲学者アランの言葉で、ジャック・デリダが引用しているらしい。どちらの著作も読んだことはないが、この言葉を借用して知を定義すれば、「知とはノンというための材料」ということになる。

知のGDPを増やすために「贈本屋(ぞうほんや)」というものを考えた。従来の本屋との根本的な違いは、金銭のやり取りの有無ではなく、商品となる本を読んだ読んでいないかの違いである。

世に溢れる膨大な本の中のごく一部が選ばれて、本屋の棚に並べられる。膨大な本の海に埋もれてしまっている本を掬って、それを必要としている人に届けることが本屋の役割だろう。
 贈本屋は、読んだ本から得た知を他者に伝搬することが役割だ。贈本屋は読んだ本について、客にどんな本かを説明し、客は読みたいと思ったならその本をもらう。

知のGDPという観点では、従来の本屋の方が量を捌くことができる。一方で贈本屋は質に利がある。しかも、本屋を始めるのは経済的なハードルが高いが、贈本屋は誰でもすぐになれるので、どんどん増やせる。贈本屋の客はその本を読んで知を得たのなら、すでに贈本屋の資格があるのだ。よって、贈本屋自体が増殖すれば、量、質ともに贈本屋に利がある。完全勝利だ。

本当に完全勝利かどうかは怪しいが、それ以前に本をあげるという関係はなかなか得難い。実際に身近な人にやってみることを想像してみる。自分が数千円払って読んだ本を、タダであげると言っているにも関わらず、喜ぶ相手は少ない。なぜなら、本を読むという行為は、受け取る側にとっては多大な時間と集中力を費やし、心身のエネルギーを注ぎ込まなければならない。本を読んで得た知を共有したいという欲望を満たすために本をあげるということは、相手の人生の限られた時間の一部を奪う行為であり、決して軽い行為ではなく、むしろ非常に面倒で重たい行為である。この「面倒さ」や「重たさ」の回避がお金というテクノロジーの根幹であり、「知もどき」が氾濫する要因だと考えている。すでに長くなったので、理屈は割愛するが、納得できる人には納得できるだろう。

結論だけ言えば「お金は便利で楽だが、その楽さに抗って、面倒なことを引き受けることが知のGDPを増やすということであり、贈本屋はその手段である」となる。

贈本屋の最大の難関は「あげる相手とのマッチング」だが、昨今のブックイベントでの出店は贈本屋にとってよい場になるのではないだろうか、と思い、チャンスがあればやろうと思っている。当面は手応えが欲しいので、「本をあげるから感想をください」という形式でやろうと思う。贈与のネットワークが十分なサイズになれば、一個一個の関係を維持しなくても、そのネットワークの中にいるだけで、巡り巡って自分に返ってくる感覚が得られるようになるだろう。