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同じ土俵で戦わないために

2025.10.20

同じ土俵で戦ったら負けてしまう、というようなことは多い。ひとつひとつの勝負に着目すれば、勝つことだってある。でも多くは負けてしまうのなら、個々のプレイヤーの勝ち負けだけを見てもあまり意味がない。全体で見た時の勝敗は、どういった「土俵」で戦っているかによって確定している。
 例えば、直径1mの水道管が、左に90cmの管、右に10cmの管に分かれており、そこに1リットルの水を流すとする。ひとつひとつの水分子が左に行くか、右に行くか、予測できないが、全体として、左に0.9リットルが、右に0.1リットルが流れることは、実際に流す前から確定している。もしくはカジノで勝つ人も負ける人もいるが、トータルでディーラーが勝つことは統計的に最初から確定している。いわゆる「構造を把握する」ということだ。目の前の個々の競争に注目するでなく、一歩引いて、俯瞰して見たときにどういう勝負をさせられているかを把握したい。システムを正当化して、個人の問題と思い込んだり、その視点で「敵」を設定してしまったら、泥沼だ。

ここで私の脳裏にある土俵とは、分かりやすいものだと、売上とか、SNSでの拡散とか、人気とか、そういった「量の勝負」だ。分かりにくいものだと、権力とか、巨大な構造、世論の醸成なども、結局「量の勝負」になるだろう。そういう「土俵」で勝負をすること自体が、その構造を支持することに他ならない。
 「買い支えよう」とか「拡散お願いします」とかは絆創膏だということを認識しよう。もちろん絆創膏は大事だ。いつ包丁で手を切ってしまうかは分からない。ちゃんと常備しておこう。それはそれとして、手を切らないような安全な切り方を学んだり、どんなものをどんな切り方をすると危ないのかを知っておくことも大事だ。あくまで絆創膏は絆創膏でしかなく、応急措置なのだ。

不利な「土俵」で戦わないためには、有利な「土俵」を新たに作るしかない。それは簡単ではないし、『覚悟』も必要となるだろう。新しい「土俵」を「作る」といっても、物理的な何かを作ることは本質でない。作るべきものは観念であり、その観念を伴った関係だ。つまり現在の社会ネットワークの中に新しいネットワークの構造を作ることが肝要となる。

ここで少し脱線して、ケインズの「経済問題の解決」の話をしたい。1930 年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは"Economic Possibilities for our Grandchildren"の中で、技術進歩と資本の蓄積によって、あと 100 年くらいあれば経済問題の解決は可能であり、労働から解放された未来を予測している。2025 年現在、技術の進歩と資本の蓄積の予測は的中したものの、残念ながら経済問題はより深刻になる一方で、あと 5 年で解決に向かいそうな気配はない。このケインズの予測は理論的可能性の提示であって、同文書が中心的に記述していることは、それに対する懸念である。

Will this be a benefit? If one believes at all in the real values of life, the prospect at least opens up the possibility of benefit. Yet I think with dread of the readjustment of the habits and instincts of the ordinary man, bred into him for countless generations, which he may be asked to discard within a few decades.
 これは有益なのだろうか? もし人生の真の価値を信じる者なら、恩恵がもたらされる可能性はあるように見通せるだろう。とはいえ、何世代にもわたって培われてきた習慣や本能を数十年のうちに捨て去ることが一般庶民に要求されることを想像すると私は恐怖を感じる。J.ケインズ “Economic Possibilities for our Grandchildren"より

つまり環境の変化に合わせて人々の慣習も変わる必要があるというのが主張であり、慣習が変わらなかった結果として、現在、経済問題の解決に至っていないことになる。技術の革新によって生産性が向上したことによる便益を適切に分配すれば、不毛な労働に心を摩耗させることもなかったのに、従来の慣習にただ従って、効率や競争を優先してしまった社会に私たちは今生きている。ハードウェア的には充実していても、その性能を活かせるソフトウェアがインストールできていない状態である。

話を単純化して、経済問題の解決を阻むあらゆることを「悪」と呼ぶならば、現状の慣習に従った経済活動はすべて間違いであったということになる。この前提では、法的に問題なかろうと、それで喜ぶ人がいようと、どれほどに善意に溢れた行為であろうと、結果的に現在の経済格差の構造の固定化に加担していたことになる。常識的で社会的に許されていることだとしても、それはVRゴーグルの中で作られた幻想の中での正当性に過ぎない。

ころころ話題を変えてしまい恐縮であるが、今度はこんなシチュエーションを想像してみてほしい。電車の中で立っていると、後ろから「すいません」と言われる。どうやら"あなた"は通路を塞いでしまっていたようだ。咄嗟に"あなた"も「すいません」と言い、“相手"を通すように通路を空けようとするだろう。
 ここで"あなた"と"相手"の間にある「関係」に着目する。ただ「すいません」と互いに言い合っただけの関係だろうか?この場面を社会的な関係として捉えるなら、「すいません」というやり取りは単なる言葉の交換ではなく、社会的秩序維持の一部に他ならない。“あなた"と"相手"は、互いを個人として認識する以前に、「公共空間の参加者」としての役割を演じている。日本社会の中で共有される暗黙のルール――たとえば「他人の邪魔をしてはいけない」という前提や、「譲り合いこそが円滑な公共空間を保つ」という価値観――を無意識のうちに共有しているからこそ成立している行為である。二人の間には慣習的行為を共有する関係——すなわち社会を構成する最小の単位——が成立しているのである。

このような現在の慣習は社会が都市化していく中で醸成されていったと思われる。現在では当たり前の慣習であっても、かつては当たり前ではない。昔の人たちが生活の中でさまざまな問題や衝突を経験し、そのたびに解決策を模索してきた結果なのだろう。しかし、社会の複雑化に伴って、慣習を望ましい形に最適化することが難しくなっているように感じる。その結果として、「生きづらい」としか言えない人たちを量産したり、「立場」を失うことへの不安を抱えるだけの人を量産したりする社会に陥ってしまった。かつて以上に個々人が問題に対峙し、意識的に慣習を変えていく必要性に迫られている。

「構造に抗う」とは、新しい慣習を共有するネットワークを拡大させることであり、そのような「関係」を作ることである。「構造」に与してそれに加担することがないように、「構造」について考え、そのような知を共有をするような関係づくりが求められる。そのような実践を繰り返していくと、それを阻もうとするものが顕在化し、根底にある問題が見えてくるだろう。

私はメジャーなSNSはやっていないし、このブログもnoteなどのSEO的に有利なプラットフォームではやっていない。もちろん、広告もないし、google analyticsなども入れていない。それらに一切依存せず、あなたと作る関係を求めている。