一覧へ

このブログはおもしろいのか

2026.06.02

「おもしろさ」は主観です。だからといって、そこに優劣がまったく存在しないとは思いません。例えば、差別主義者にとっては、他者を貶めることで自分たちを慰める言説が"おもしろい"と感じられるのでしょう。彼らは、自身の中に確たる自己の感覚を持てないため、他者を見下したり排除したりすることで相対的な優越感を希求してしまうのです。本ブログはそのような気持ちに応えることはなく、むしろ不快に思われると思います。

差別主義者でなくても、「自分が何者であるか」を内側からではなく外側の何かで確かめたい人は多くいます。外側の何かは、特別なモノかもしれないし、所属や肩書かもしれないし、学歴かもしれないし、思想や趣味かもしれません。そういった方にも愉快な話はできないかと思います。

私の思う「おもしろい」をわかりやすく説明するために、私の思う「つまらない」の話をしたいと思います。

久しぶりに、古い友人が集まる飲み会に行きました。それぞれの簡単な近況報告が終わると、健康、家庭と話題は移り、それも終わると「このふるさと納税がよかった」という報告大会が始まってしまいました。

かつては、くだらない話で盛り上がった仲だったのですが、今の会話は本当にただ"くだらない"。仕事の後も、ただお得な何かを追いかけることに執着する人生を送ってしまうなんて、なぜこんなことになってしまったのだろうと考えてしまいます。彼らの時間をどのように使おうと彼らの"自由"ですが、しかし一体、どんな選択肢から選んだら、それが一番いい人生になるのだろうか。もっと「おもしろい」ものを選択できなかった結果のふるさと納税であり、何も選ぶことができなかった彼らは"不自由"そのものに見えます。

世界は知らないことだらけですし、いろんな人がいます。外へ出ると、知らなかった世界が次々とどこまでも開けてくる。そこでの発見を彼らにも伝えたいし、そんな発見を聞きたいのだけど、お得に手に入れたお肉が何ランクかを切々と伝えようとしてくる相手に伝わる気がしません。

「山は登ればおもしろい。登らなくては分からない」って言ってる人がいて共感したという話をしたら、言わんとしていることが伝わったようで、その反応は不快そうでした。彼らも彼らの虚無感を分かっているものの、分からないふりを必死にしているように感じます。私がおもしろいと思う話は、彼らには無関心どころか、不快ささえも招く。彼らにとって、私の存在は加害性があります。最大多数の利害を最大化するならば・・・、私は黙って彼らの加害性を受け入れるべきなのでしょう。

ふるさと納税やってないと答えると、「損してる」と言われます。そんなことを調べるのに時間を費やす方が、よっぽど人生を損しているように思いますが、そのように思うことができない人たちのせいで、こちらは経済的に損させられている。他人の人生なんて、その人の勝手と思っていましたが、あらゆることがつながっており、無関係ではいられません。“つまらない"人間が次々とブラックホールに飲み込まれていき、その重力はますます強くなっているように感じます。

このブラックホールに抗って、おもしろくあるためにどうするかがこのブログのテーマです。おもしろそうと感じていただけたでしょうか?