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真実を知るために

2026.08.29

人間の欲望をふたつに分けます。「真実を知りたい」という欲望と「真実を知りたくない」という欲望です。

多くの人が「真実を知りたい」と思っているのでしょうが、現実には、不都合な真実に目を背けたいという欲望に支配されている人の方がずっと多いようです。そのような人々は「自分が見たいと願う幻想」の中に留まりたいと望んでいる人々とも言えるでしょう。彼らは、自分自身が本当はどのような存在なのかを明らかにすることよりも、自らを明け渡し、幻想の中にいる人々と一体となることで、安らぎを求めることに重きがあります。

「真実を知ること」は坂を登るようなものです。登れば登るほど、坂は急になります。多くの人が立ち止まる場所を越えて、さらに先へ進もうとすれば、次第に同じ景色を見られる人は少なくなっていく。真実に近づくほど、孤独になっていきます。人のあり方は多様であり、その多様さを突き詰めれば、誰とも重ならない孤独に行き着くことは必然です。

一方で、「“自分"とは他者の寄せ集めである」というのも事実です。素朴に思っているほど、“自分"というものは自分の意志で動いているわけではありません。例えば、私は日本語話者であり、思考も日本語がベースとなっていますが、それは私が選択したことではありません。私の人生において、たまたま日本語話者が大勢いたため、周りの真似を繰り返しているうちに日本語を話すようになりました。ただの真似を繰り返しているだけなのに、自分で考えて自分で話している気になっています。これは言語だけではありません。日常の慣習も文化的な感受性も、他者との相互作用の中で形づくられたものです。何を食べるかを決めて、それをおいしいと思ったり思わなかったりするのは、過去の経験の蓄積に依存し、文化的影響に支配されています。おもしろいと思ったり、不快に思ったり、何が正しくて、何を悪いと判断するか、どのように捉えて、どのように決断するのか、などなど、自分の振る舞いや感情といった自分を構成するものが、よくよく考えてみると概ね他者によって形成されていることに気が付きます。

上記をまとめると、真実を知るには、孤独に向かって生きることと同時に他者とのつながりを築くことが必要です。この二つは矛盾するものではなく、また、どちらか一方だけでは成り立ちません。

同じ価値観の中に閉じこもることなく、自分自身の感覚と判断で世界に向き合うこと。それと同時に、他者とのつながりを築くことも大切なことです。自分だけの経験や考えに閉じこもっていては、自分が何を見落としているのかに気づくことができません。大切なのは、同じ価値観を持つ人々と群れることではなく、自分にとって未知のもの、予測できないものとの出会いを大事にすることです。そして、世界を知るには、自分自身の身体でもって感じ取ることが欠かせません。言葉だけで分かった気になっていても、それは結局、自分を慰めるための物語を生成しているに過ぎません。実際に経験し、試し、行動してみること。つまり、実践することが必要です。実践がなければ、自分の考えと現実との間にあるズレに気づくことさえできません。自分に都合のよい言葉を並べて、自分自身に言い訳をしているだけなのに、そのことに気づかないままになってしまいます。

予測できない何かに飛び込むことは、ときに摩擦や衝突を生みます。しかし、摩擦のない関係、予測を裏切らない世界の中に閉じているかぎり、自分の思い込みから抜け出すことはできません。自分とは異なるものと接触し、自分も他者も揺さぶられる。その不確かさや痛みまで含めて引き受けることが、真実に近づくということなのだと思います。