0でも1でもない
ある情報源から0.5013212431…と発信されていて、あなたは0.50132まで知っている。そこに「小数を知らない男」が現れて、あなたに問いかける。
「結局それって0なのか?それとも1なのか?」
あなたは「0でも1でもないんだけど、ほんの僅かに1よりの…」などと丁寧に答えようとするけど、「じゃあ、1なんだね」ということになる。「そうじゃなくて…」と言いかけると、「どっちでもないっていうこと?」と聞かれ、うんざりしてしまう。自分の中では小数点以下5桁まではっきりしているのに、相手からはよくわからないことを言う人として扱われる。でも「完璧に分かっているの?」と聞かれたら、小数点6桁以降は知らないので口ごもる。
「あなたの中にはそれを表現できる答えはないんですよ」と言っても、小数を知らない男にはその意味も伝わらない。すごく頑張って伝えて、男も頑張って理解してくれて、0.501まで分かってくれた。分かった上で、結局0.001にこだわっているだけの人につきあわされて、その労力に見合わなさを感じているようだ。あなたはもっとディープなところに面白みがあるからと、その次に0.0003が待っていることを伝えようとすればますます泥沼だ。彼は"タイパ"が大事などと言いながら去り、強迫観念に囚われているかのように「あれは0。これは1。それは…」と表面的な知識を蓄え続けるのだ。
しばしば「正しい情報源」なんて言葉を聞くが、情報源からすべての情報を正確に取得できるという前提を考え直した方がいいように思う。
小数点以下の桁数が大きいほど、「質量のある情報」と表現することにする。自分の中に質量のある情報を多く持っているほど、その人の内側は豊かで自由になる。なんでも0か1に置き換えてしまう人は不自由である。人は取得した情報に基づいて思考し、行動を決定するのであるから、つまり質量のない情報にしかアクセスできない人はその人自体が不自由である。
巷に溢れているのは0か1かの質量のない情報だ。質量がないから拡散される。質量のない情報だけが撒き散らされる中で、重みを持った本質は埋もれてしまう。市場の中では、人々の欲するものがそのまま需要として現れ、経済的インセンティブが表層の拡散を助長し、世間で"知識人"とされる人々やそれに自己を委ねて安寧を求める人々がそうした表層の拡散をさらに加速させる。 人々が望む根拠だけを取り上げて、不都合な「何か」から目を逸し、「都合良さ」が集積される。
情報の本当の重さに触れたいなら、自らの時間と労力を惜しまず、読み、咀嚼するしかない。結局あなたがどれだけ疲れるかの問題なのだ。何が重要かを見抜く力は、出所の正しさや肩書きに頼るのではなく、自分自身がどれだけの労力をかけたかにかかっている。『近道』を選べば、質量のないスカスカの言葉だけしか得られない。スカスカの言葉ばかり摂取していれば、その人も中身のないペラペラになる。ペラペラになって自分の中に拠り所がなくなると、自身が属する秩序に安寧を求めるようになり、権威に意味を求めてしまう。疑うことをやめて、自身の望む結論を信じるための根拠を探すほど、歪んだ世界を認識することになるだろう。
情報は膨大で、すべてを理解するのは誰にとっても不可能だ。だから「分からない」と認識することがごく自然で健全な態度となる。人はつい「分かったこと」にして安心を得ようとする。不確実で解釈しきれない部分を削ぎ落とし、単純化されたイージーな情報にした方が低コストで済ませることができるからだ。まずは一歩引いて、安心しようとするその心理を自ら意識して、きちんとコストをかけて考える所から理解が始まる。
結論だけが強調されていたり情緒を煽るような情報については、その発信者や拡散している人々の文脈や心理を読むことで、その情報がどのような意図や欲求から生まれているのかが見えてくる。そのとき同時に自分の立ち位置を俯瞰して、どのような先入観でその情報を見ているかを意識する必要もあるだろう。
自分の中に閉じこもらないように意識した上で、他者との対話や未知の場に身を置くような体験を通すことで"ただの知識"を身体化することが可能となる。そのような過程を経ることで、自分の外側を発見することができ、情報の質量は増し、あなたは自由になれる。