なぜ贈本屋か
世に溢れる膨大な本の中のごく一部が選ばれて、本屋の棚に並べられる。膨大な本の海に埋もれてしまっている本を掬って、それを求めている人に届けることが本屋の役割だろう。
それに対し、贈本屋は、読んだ本から得た「知」を他者に伝搬することが役割となる。贈本屋は読んだ本について、客にどんな本かを説明し、客は読みたいと思ったならその本をもらう。物はあげたらなくなるが、知は人に伝えてもなくならない。増える一方だ。「知」が流通すればするほど、世界は知で溢れ、私たちは豊かになるだろう。
贈本は、一方的な善意とは違う。対価として、「読んでほしい」という気持ちを引き受けてもらうことになる。実は本をあげるという関係はなかなか得難い。自分が数千円払って読んだ本をタダであげると言っているにも関わらず、喜ぶ相手は少ない。本を読むという行為は、受け取る側にとっては多大な時間と集中力を費やし、心身のエネルギーを注ぎ込まなければならないからだ。本を読んで得た知を共有したいという欲望を満たすために本をあげるということは、相手の人生の限られた時間の一部を奪う行為であり、決して軽い行為ではなく、むしろ非常に面倒で重たい行為である。
本屋は本を売って、対価としてお金を受け取るので、その場で清算される。店と客の間に売買という関係が一瞬できて、すぐ無関係の人になることができる。
贈本は、きれいな言い方をすれば「意志を引き継いでもらう」とも言えるし、重い言い方をすれば、「業を負わせる」ということだ。
「A. 業を負う」と「B. 業を負わない」、どちらが自由であるように感じるだろうか?この質問に「A. 業を負う」と答えていただけるよう、「なぜ贈本屋か」ということを説明したい。

ここで、どんな本を読んだら〈あなた〉の世界を広げるかを考える。〈あなた〉の世界の完全に内側にある「本A」を読んでも、〈あなた〉の世界を広げない。一方で、〈あなた〉の世界から大きく外れた「本B」を読んでも、やはり〈あなた〉の世界を広げることは難しいだろう。すでに分かりきっていて、どこにでもある話に思えたなら、「本A」であり、〈あなた〉の世界の広さがその本を楽しむには十分ではなかった場合は「本B」ということになる。
世界を広げるような読書体験をしたければ、自分の外側にあって、かつ、そこまで遠くない本を読む必要があるが、それを自分で選ぶのは難しい。

そこで贈本屋である、というのはすこし都合が良過ぎるだろう。上図のように、〈わたし〉は〈あなた〉の世界の外側を知っているかもしれないが、逆に〈あなた〉の世界を正確に知っているわけではないので、結局「ちょうどいい本」は分からない。それでも〈あなた〉自身で選ぶより、ちょうどいい本に遭遇する可能性は高そうに思える。

形を変形して、このような図にすれば、〈わたし〉が〈あなた〉のためにちょうどいい選択ができる気になる。実線の〈あなた〉の世界と点線の〈わたし〉の世界の共通部分に「本A」がある。〈あなた〉も〈わたし〉も共通する経験があり、共通する感性を持っているだろうからだ。万人向けで、軽く読めて、すぐ消費できる本は「本A」となる。そして〈わたし〉の得意(特異)なところの本が〈あなた〉にとっての「本B」になる。「本B」は誰でも読めるわけでなく、それを読むための相応の労力を要する本といえるだろう。〈わたし〉はその本に必要な労力を把握しているはずで、〈あなた〉との対話からちょうど良さそうな本を選べるかもしれない。
しかし、やっぱりこの図式化はどうしても単純化が過ぎる。この図では、大雑把なイメージはできるだろうが、本の本当のおもしろさは「本A」や「本B」のようなラベリングでは語れない。いずれにせよ、現実には「ちょうどいい」本をあげることは難しい。それでも、「ちょうどいい」かは分からなくとも、少なくとも、その本は〈わたし〉にとって読んでほしいと思える「何か」のある本であり、かつ、その「何か」は経済合理性とは無縁、むしろ逆行するものである。万人向けでなく、軽く読めず、すぐ消費できない本が「本B」である。読み進めるのに労力がいるからこそ、読み終えたときに「これは誰かに伝えたい」と思わせる力が宿るのだ。本当におもしろい本に出会いたいなら、相応の労力が必要である。
逆に自分で選択したら、自然と読み慣れたジャンルの楽に読める本に偏りがちだ。さらにAmazon等で合理的にリコメンドされた商品を買えば、一番楽で合理的なところに、人々は吸い寄せられていき、世界は均質化していく。
自分では選べない「ちょうどいい」本を選び、面倒で労力を必要とするような読書体験を如何にするかが〈あなた〉の世界を広げる鍵となる。豊かな体験は他者との関係性によって作られる。贈本はただ物質の受け渡しではなく、文脈の豊穣化であり、それが〈あなた〉の世界を広げる。さらに〈あなた〉が別の人に贈本をしたならば、世界の広がった人が次々と増えていくことになる。そのような人たちが作るネットワークの中にいることで〈わたし〉もその恩恵に授かれるはずだと期待する。多様に広がりのあるネットワークの中に身を置くことが、わたしの考える自由である。