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目次
- はじめに
- 時代と女性とその描写
- 私の解するフェミニズム
- 男の世界
- ストーンオーシャン
概要
『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦著 集英社)の連載は1986年に始まった。すでに40年以上の歴史を持ち、100巻を超える長大なシリーズである。『ジョジョ』は、時代や舞台、設定の異なる複数の「部」から成る。主人公は部ごとに世代交代し、各部は全体の物語につながりながらも、それぞれ独立した作品として楽しめる。
第6部の主人公空条徐倫は、シリーズ初の女性主人公となった。ジョジョは王道のバトルマンガである。殴られて顔が激しくひしゃげているシーンもあるし、ぼろぼろになった身体を引きずってでも闘わなくてはならない。こうした姿は、いわゆる「女性らしい」立ち振る舞いから大きく逸脱している。しかし徐倫は、これまでの男性主人公たちと何ら変わることなく描かれており、読者は徐倫が男性と対等に闘う姿を自然に受け入れることになる。これは、従来の「女性らしさ」から自由なヒロイン像の提示と捉えることができる。
その一方で、女性であることには必然的な意味がある。第6部のタイトルは『ストーンオーシャン』と題されている。ここで「オーシャン=海」とは、いわゆる神話的なモチーフである「母なる海」である。これは女性性を伝統的な母性のイメージへと結び付ける表象であり、男女平等の観点から嫌悪を抱く人も少なくないと思われる。
さらに第7部では「男の世界」という言葉も登場し、男性役割を果たすことが成長として描かれる。そもそも作品全体を見渡せば、少年マンガの系譜に連なる「強さ」や「戦い」を中心とした、世間的には「マッチョ」と見なされるような世界観は一貫して維持されている。『ジョジョ』はジェンダー規範を更新しようとする要素を持ちながらも、同時に伝統的な男性性や女性性のイメージを再生産する側面も抱えていることは事実であろう。
本書はフェミニズムの観点を軸に、ジョジョの第6部の理解に向けて、個人的な解釈を述べたものである。この解釈が、著者荒木飛呂彦の見解であると主張したいわけではない。また、ジェンダーに関する規範を持ち出して、好まれる箇所を称賛し、好まれない部分を批難することは簡単であるが、それは本書の意図に全くそぐわないことは、はっきりと断っておきたい。もちろん、男女平等という価値を否定したいわけでも、そこから外れる表現を擁護したいわけでもない。表面的な基準だけでは捉えきれないものを、きちんと拾い上げたいのである。
『ジョジョ』にはそれだけの奥行きがある。フェミニズムの核心へと掘り下げていくことは、『ジョジョ』の深淵へ近づいていくことでもある。
表現には、社会的な規範から見れば好ましくないものや、批難を受けやすいものがある。しかし、だからといって、それらをただ取り除いていくだけで、世界が良い方向に進むとは思えない。批難を避けようとするあまり、表現すること自体が控えられてしまうものの中にも、描くことによって初めて見えてくるものや、それだからこそ描く価値のあるものがあるのではないか。そして、第6部『ストーンオーシャン』と第7部で説明される「男の世界」は、まさにこのことを示すのに格好の題材であるように思う。
時代と呼応しながらも、それでも時代にすんなりと収まることもなく、社会との距離を測り直しながらも、ときにはその境界に摩擦を起こしながら、荒木飛呂彦は何を描いてきたのだろうか。『ストーンオーシャン』を手がかりに、その答えを探ってみたい。