JOJO LIFE 付録: 背景を説明する試論
「JOJO LIFE」は誰でもさくっと読めるようにと私なりに意識して書いた。さくっと感の代償として、説明が不親切な文も多く、一読してすぐ全部分かるのは難しい箇所もあると思う。懇切丁寧に説明した文になると、長くなって離脱してしまう読者もいるだろうと想像し、短く雰囲気だけでも分かった気になるような文章になるように努めた。
「JOJO LIFE」は『ジョジョ』の『リアリティ』に迫ることを目的としているが、その説明として学術的知見も援用している。荒木飛呂彦の「観察」と学術的蓄積による帰結を自然な形で接続し、整合的な解釈を可能とするモデルを提示することで、その『リアリティ』を示したい。特に第5部および第6部においては、運命と自由意志の関係は重要なテーマとなっている。それについての『ジョジョ』との突き合わせは本編で行っているが、この付録では、ある種の人への親切な解説として、礎となる背景知識を解説する。
以下の文章は、権威としての"科学"に認められたものではないので留意されたい。権威としての"科学"にも認められた成果に基づいているが、それに立脚して私が考えた試論である。
「私」とは
時間の最小単位として1があるという前提の下、時刻t
における「私」I(t)
を下記のように定義する。
I(t + 1) = Env(t) ⊗ I(t) + FW … (1)
I(t)
は時刻tにおける「私」の思考や振る舞いを表す。Env(t)
は時刻t
の環境を表し、⊗はなんらかの決定論的な相互作用をする演算子とする。FW
は自由意志(Free Will)である。するとFW
以外の項は「私」ではどうすることもできず決定してしまった「私」になる。そこで、式(1)の「Env(t) ⊗
」という演算を運命と呼ぶことにする。
時刻が上から下へ流れていくときの「私」の軌跡(塗りつぶされた青い矢印)を図示すれば、運命と自由意志は下記のような関係になる。

Env(t)
は人も人以外もあらゆるものを含む。物質的意味では人以外からの作用が大きく寄与するだろうが、精神的意味では人からの作用の割合がぐっと増えるだろう。人と人の関係は、会話する、売買する、コミュニティや組織を構成する、制作し鑑賞するなど、様々な関係が膨大にあり、それらをつなげば、すぐに巨大なネットワークができるだろう。テクノロジーの発展 ー 例えば印刷、ラジオ、電話、インターネットといった発展は様々なつながりを増やし、ネットワークの複雑さを増大させる。さらに現在の経済規模では、近くのスーパーの買い物でも、その原材料を辿っていけば、すぐに世界中にネットワークが広がる。このように把握不可能な不特定多数の人々とのつながりが存在するようなネットワークが「運命」として「私」の振る舞いに寄与する、と考える。社会ネットワークは極めて複雑であり、「運命」はカオスである。
「私」の行為・思考を決定する「自由意志」と「運命」の比率は人それぞれ異なるであろうが、素朴に想定するより「自由意志」はずっと小さいとすることを示唆する結果が、近年の実証研究では優勢である。自由意志の存在に疑問を投げかける実験として、リベットの実験が有名だが、それも50年近く前の研究である。以降、様々な分野で素朴な自由意志に懐疑的な研究の報告は増えている。AIに聞けば、いろいろ答えてくれるだろう。興味ある方は調べていただきたい。
上記の結果を鑑みて、以降は「自由意志はほぼない(しかし無ではない)」ことを前提して進める。
FW ≒ 0 … (2)
バタフライ・エフェクト
バタフライ・エフェクトとは、「蝶の羽ばたきによって竜巻が起きる」と比喩されるような、ごくわずかな初期条件の変化が、時間とともに増幅され、最終的に予測不可能な大きな結果の違いを生み出す現象のことである。その現象を発見したローレンツによる著作「カオスのエッセンス」(共立出版)という本に、一定間隔で凹凸が並ぶ斜面を降りるソリの軌跡のシミュレーションがある(下図の左がローレンツによるシミュレーション結果、右上の図はこのシミュレーションのイメージ)。

このシミュレーションでは、ソリに乗る人は軌跡を自らコントロールすることはなく、ただ凹凸に従って軌跡が変化する。複数の線は初期条件のわずかな違いを示しており、最初の位置が少しずれるだけで、全く異なる軌跡になることが分かる。図の上部では規則的で似たような軌跡で始まっているが、下に行くほど軌跡の違いは顕著になり、最下端に到達するころには全くバラバラの動きをしている。
このソリの軌跡の予測不能さを前節の式(1)(2)で定義された「私」に当てはめて考えてみる。斜面の凹凸が「運命」に相当し、私たちは基本的に「運命」に決められた通りの軌跡に従って、滑っていくことになる。「運命」はカオスであり、ソリのシミュレーションよりずっと複雑な軌跡を辿るだろう。そこに、右か左かにわずかに重心を傾ける程度の行動が自由意志FW
として可能であると考える。自由意志はその軌跡を微妙に変える「ゆらぎ」として作用するにすぎない。思うがままに軌跡を決めることはできないが、全く制御できないわけでもなく、その微小な軌跡の違いが、最終的には大きな結果の差につながるのである。全く思いがけない結果になるかもしれないが、そこに全く意志が反映されていないわけでもない。むしろFW ≒ 0
なのだから、自由に期待した方向に向かうにはいかに「運命」のカオスを乗りこなすかが肝になる。
「私」の軌跡はソリの軌跡よりずっと複雑になるのは、斜面となる「運命」には別の「私」の作用が含まれるからである。
式(1)において、「運命」に寄与する環境Env(t)
には他者も含まれる。よって、j番目の「私」をIj(t)
のように添え字で区別することにすると、Ia(t)
に寄与するEnva(t - 1)
にはIb(t - 1)
が含まれていることになる。さらに展開すれば、Ib(t - 1)
にはFWb
も含むし、Ib(t - 1)
を展開すると、Envb(t - 1)
にはIc(t - 2)
が含まれたり、Ia(t - 2)
が含まれていたりするだろう。
ここで、a,b,cが近い関係で頻繁に相互作用を起こすとすると、Env(t)にはしばしば彼らの自由意志FWi
が入ってくる。そうなると、FW ≒ 0
である微妙な「ゆらぎ」による選好が結晶化していき、はっきりとした志向性を持つようになる。ソリの比喩で言えば、みんなが何度も通った場所に溝ができて、安定した軌道になるイメージである。社会ネットワークのカオスの中から次第に自己組織的に秩序立っていき、ミクロには予測不可能だった軌跡が、マクロにははっきりと一定のパターンや傾向として現れる。世代を超えて結晶化された十分な規模の秩序は慣習、風俗、文化、などと呼ばれ、より体系化されれば、学問、芸術などと言ったものになる。
混沌からの秩序
“秩序"は日常会話において"社会秩序"を指すことが多いが、それ以外にも「整理されている様子」や「パターンが見られる状況」を指して使われる。
科学においても"秩序"という言葉は使われる。たとえば、蒸気機関は熱の「カオス」な動きから一つの方向の「秩序」立った力へ変換する仕組みである。またアラン・チューリングは貝殻や動物の皮膚に見られる模様がどのようにして生まれるのかを数学的に解明するための理論を提唱し、化学物質の拡散と反応の過程から「秩序」立ったパターンが自然に生まれることを示した。これは「カオス」の中から「秩序」が立ち上がる現象の一例であり、生命の複雑さに潜む規則性の理解につながった。
社会の「秩序」と自然の「秩序」を別個のものとせず、同じ原理によって連続する一つの流れとして扱えるように「秩序とカオスの関係」を定義することができる。それは、イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」に端を発する。
散逸構造では、外部からのエネルギーや物質の継続的な流入がシステム内部に非線形な相互作用を引き起こし、そこから新たな秩序が自己組織的に生み出されるとされる。ここで「非線形」とは、原因と結果が単純に比例しない関係を指し、平たく言うと、小さな変化が思いもよらない大きな影響を及ぼすような複雑で予測困難な状態、すなわちカオスを引き起こす性質である。「自己組織的」とは、上位の指示や設計なしにシステム内の個々の要素が相互に影響しあうことで、全体として秩序が形成されていく様子を意味する。つまり、トップダウンではなく、ボトムアップで秩序が現れてくることを指す。
まとめると、散逸構造とは、カオスの中にある無数の可能性の中から、動的な相互作用によって新たな秩序が自発的に立ち現れてくるという考え方である。
スチュアート・カウフマンは、化学物質から生命や複雑な秩序が自己触媒的ネットワークとして自己組織的に生成するという説を唱えた人物として知られる。「“カオスなXの中からYが秩序立つ"のX、Yを変えながら化学物質、遺伝子、タンパク質、細胞、生命、集団、文化の階層構造を説明して」とAIにお願いすると、下記の答えを生成してくれた。
カオスな分子の中から化学反応系が秩序立つ
分子同士がランダムに衝突する世界において、一定の反応パターンが生じ、安定した化学反応ネットワークが形成される。
カオスな化学反応の中から遺伝子が秩序立つ
複雑な反応の組み合わせの中で、自己複製する情報構造が出現し、進化可能な「遺伝子」という秩序が立ち現れる。
カオスな塩基配列の中からタンパク質が秩序立つ
遺伝子の情報が翻訳され、機能的で立体的な構造をもったタンパク質が合成されることで、生物の基本的な機能単位が形作られる。
カオスなタンパク質の中から細胞が秩序立つ
無数のタンパク質や分子が相互作用し、エネルギーを取り込み、環境とやり取りしながら自己を保つ構造体として「細胞」が現れる。
カオスな細胞の相互作用の中から生命が秩序立つ
多数の細胞が連携し、自己を維持しながら環境に応じて変化する「個体」としての生命が出現する。
カオスな生命個体のふるまいの中から集団が秩序立つ
生物個体が互いに影響を与えあう中で、群れ、家族、群集といった社会的まとまり=集団が現れ、集団内での役割分担や協調行動が整う。
カオスな集団の相互作用の中から文化が秩序立つ
集団同士が衝突したり交わったりする中で、言語、道具、制度、価値観などが蓄積・伝承され、「文化」として高次の秩序が形作られる。
このように、あるレイヤーの秩序がカオスに相互作用することで高次の秩序が生まれ、それが繰り返されることで階層構造をなす。
脳内の秩序
脳は典型的な複雑系であり、膨大な数のニューロンが常に相互に影響を与えながら活動している。個々のニューロンは単純な情報を送受信しているだけだが、その無数のやり取りが大規模なネットワークとなって、記憶や思考、感情といった高次の機能を生み出す。このネットワークは経験や学習によって柔軟に変化する。脳の働きとは、つねに変動するカオスな関係性の中に秩序が生まれるプロセスにほかならない。
カオスから新しい秩序が生まれ、その秩序同士の相互作用がカオスとなって、さらなる高次の秩序を生む。よって、脳内のネットワークにも階層構造ができる。その階層構造の中の高次のものほど、私たちは「意識」としてよりはっきりと認識しやすいと仮定する。つまり脳内の高次の秩序の一部の領域を意識、それ以外を無意識と規定する。
脳内の秩序が豊かになるということは、外部からの刺激の解釈を引き受ける秩序が十全に存在するということだ。脳内の秩序が乏しいと、外部の複雑さを引き受ける秩序を見つけられないままどこかへ霧散してしまう可能性が高くなる。逆に、脳内の秩序が豊かになるほど、自己の認識する世界と外界のギャップが小さくなり、総じて調和がとれているような生き方が可能になる。そのような秩序を積み重ねる体験を繰り返すことで、自身の実在が確かなものになる。
精神科医の中井久夫は、乱雑なことを思考できる度合いを「心の自由度」と呼んだ。例えば「0〜9までの数字をできるだけランダムに連呼してください」という課題に対し、精神的にゆとりのない人ほどランダムにいうことができず、単純なパターン(=単純な秩序)しか出てこないと言う。
ここまでの説明に照らし合わせると、「心の自由度」は脳内のカオスを乗りこなすための豊かな秩序が構成されている度合いと捉えられる。カオスを安易に単純化しないで、その複雑さを過不足なく表現するシンプルな秩序を十全に持つことで自由になれる。自身の中に単純な秩序しかない状況では、外界のカオスを受け入れることができない。
次の引用は精神病者とされている人の心の中を説明したものだが、健常者とラベリングしている人にも思い当たる節があるのではないか。
心の自由度がゼロに近づくならば、外界も、自分がその中で自由に動きまわり人やものと出会える空間ではなくなって、すべてが恐ろしい"必然"とみえてもふしぎではありません。また、内面に生まれては消える印象や観念や思考も同じように受けとられることが少なくありません。
しかも、外の現実にせよ"内なる現実"にせよ、たいていのことには単純な法則性などありませんから、「偶然」とか「ハプニング」とか「確率的」という見方がありえなくなれば、世界が不条理の塊と化したり、あるいは無理にでも因果律を以て理解しようとしてもふしぎではありません。中井久夫 著「最終講義 分裂病私見」 (みすず書房)
言葉と「人間としての能力」
言葉は意識できる概念の表現であり、その背後は主に高次の秩序があると考えられる。そうだとすると「言葉を伝えること」は、意識の上の高次の秩序を相手の意識へと移そうとする行為と言える。自ら獲得した概念は、低次の階層から順に秩序立って作られたものであり、そのような概念を言葉として表現して誰かに伝えた時、受け取った側は自身の中にある秩序でその言葉を解釈しようとする。言葉は言葉にした途端に低次の秩序がこぼれ落ちるので、相手がそれを補うことができなければ、その言葉は実感を伴わないものになる。言葉ばかりで作られて下支えする秩序が希薄な意識は、現実をそのまま捉えられず、自ら作り上げた虚像を現実だと思いこんでしまうし、外界のカオスを受け入れるができなくなり、不自由になる。

トーマス・ズデンドルフ 著「現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった 2 つの違い」(白揚社) という本がある。原題は"THE GAP: THE SCIENCE OF WHAT SEPARATES US FROM OTHER ANIMALS”。人と他の動物のギャップを科学的に説明した本だ。日本語タイトルには「たった2つの違い」とあるが、実際にこの本を読むと「Xという能力は人間だけが持っている」とスパッということは難しいということが分かる。とはいえ、やはりギャップは歴然とあり、人間が他の動物に比べてどのような特異性を持つのか、様々な実証実験を通じて説明している。
人間の脳の特徴的な能力として挙げられているのがエピソード記憶と呼ばれるものだ。単なる事実や知識の記憶である意味記憶や、技能を覚える手続き記憶とは異なり、エピソード記憶は、ある出来事が起こった時間や場所、登場人物、状況や感情などの文脈に関する記憶である。
この記憶は過去を振り返るだけでなく、未来を想像する際にも働く。人はエピソード記憶をもとに、まだ起こっていない出来事を頭の中でシミュレーションしたり、計画を立てたりすることができる。このように、エピソード記憶は「心的時間旅行」の基盤として、人間特有の高度な認知能力を支えている。言い換えれば、過去と未来を結び、自分の経験と行動の連続性を意識することを可能にする重要な記憶システムである。ほかの動物にも似たような記憶があるかどうかははっきりしないが、人間はその能力が特に発達していることは間違いない。人間が当たり前のようにやっている「過去を思い出すこと」や「未来を想像すること」は、他の動物には難しいと考えられる(当然、他の動物には簡単だが人間には難しいこともあるだろう)。
エピソード記憶は人間が文明を築く上で重要な役割を果たしたはずだ。人は過去の経験を蓄積し、それをもとに計画的に行動する能力によって、自然環境の制約を克服してきた。例えば、食料の保存や道具の改良、集団での協力的な狩猟や農耕の計画は、単なる本能的行動では不可能であり、過去の経験の再現と未来のシミュレーションを組み合わせる能力に依存している。
さらに、エピソード記憶は他者との協力や社会的ルールの形成にも寄与する。過去の出来事を共有し、未来の行動を予測することにより、人間は共通の価値観や規範を構築し、複雑な社会制度や文化を発展させることができる。文明が発達するにつれて、自然環境から解放されることよりも、法律や貨幣、宗教、制度など社会的に作られた概念を理解し想像することに、認知エネルギーを使う割合が増える。このような能力によって、社会全体で共有される物語や信念体系が生まれ、個々の行動を調整し秩序ある集団生活が可能となった。ところが、この発展が過剰に進行し、集団の秩序に適応することばかりにエネルギーを消費するようになると、その帰結として「現実を生きるサル 空想を語るヒト」という状況に陥ることになる。
システム正当化

現代人を揶揄的に描けば、こんなイメージになる。人間の進化によって獲得した「意識」は、人間が作った「秩序」に従属するための虚構を見せている。VRゴーグルで彼らにとって都合いい共同幻想を見ているようなものだ。左下の人は石に躓きそうだが気づいていない。ゴーグルをしていない犬にしてみれば、石がそこにあって躓いたのだから、転んで当然に見える。しかし、躓いた本人には原因が分からず、不条理であるとしか思うことができない。VRゴーグルを外せば原因は簡単に分かることであっても、VRゴーグルの中の都合の良い「現実」と辻褄を合わせるための都合の良い根拠をでっち上げることに脳みそのエネルギーを使ってしまう。
ジョン・T・ジョスト著「システム正当化理論」(ちとせプレス)では、人々が現行の社会システムを正当化する欲求について、社会心理学の立場からの研究成果がまとめられている。彼によれば、人は不安定で無秩序な状態を嫌うあまり、自分では認識していなくとも、自分の依って立つ社会の組織や仕組みを正当化して、非合理的な判断をしてしまうと書いている。その習性によって、何か問題に直面した場合、システムの問題とせず、個人の問題としてしまうし、ひどいケースでは、都合の良い「敵」をでっち上げて、自身の正当性を得て安寧を得るための材料としてしまう。(説明の流れのために、本質を外したような説明になってしまったが、この理論の核心は社会的に劣位にある人でさえシステム正当化をしてしまうところにある。)
具体的な例として、刑務所というシステムについて考える。バズ・ドライシンガー著「囚われし者たちの国 - 世界の刑務所に正義を訪ねて」では、著者が世界8カ国の刑務所を訪ねた体験が綴られている。著者はただ視察をするわけでなく、各国の刑務所で囚人向けに作文教室などを実施して、囚人に近い目線に立った眼差しでの語りがなされている。アメリカの大学教授である著者は教え子が刑務所に入れられることを日常的に経験しており、その状況についての納得できない気持ちが他国の刑務所に訪れるモチベーションとなっている。このように、常に体験に裏打ちされた記述であることが、本書の説得力を下支えしている。
アメリカの刑務所は、囚人の数は増加の一途で、出所後の再犯率も高いため、また囚人の数は増えるという悪循環に陥っている。本来は更生のための場であるはずが、実際には懲罰を与えること自体が目的化しており、その結果として社会復帰の可能性をむしろ阻んでいる。
犯罪が誘発されやすい環境で育った若者が刑務所に入った場合を想像してみる。刑務所に入れられても、社会に復帰するための教育を受けるわけでもなく、成長にとって大切な時期をただ無為に過ごし、やがて突然社会に放り出される。そこで待っているのは「犯罪者」というマイナスのレッテルであり、その烙印が彼らを再び犯罪へと追いやる環境に押し戻してしまう。実態を見たり、思いを馳せたりすれば、簡単に分かる構造であるが、人々は別の「現実」を見ている。彼らはVRゴーグルの中の「自ら律する意志を持ち正しい行為をする自分たち」と、それに対置される「意志の欠落した悪人」という虚像を信じ込んでしまっているのである。そのような想念が囚人に懲罰を与える動機となり、その想念が積み重なって、非人道的な刑務所を維持させている。FW≒0
ならば「自ら律する意志を持ち正しい行為をする自分たち」も「意志の欠落した悪人」もない。その人の人間らしさは、どのような環境Env
にあるかではなく、自由意志FW
をどれだけ発揮できるかに依存する。
シンガポールはアメリカと違って、囚人の社会復帰をスムーズにサポートするシステムを実践できている例として紹介されている。が、その先進的なシステムであっても、章の最後の方では「大掛かりな絆創膏」とまとめられている。下記の引用が示すように、著者にはシンガポールの秩序を信じる人もまた、VRゴーグルをつけているように感じたようだ。
罪人に石を投げつけて快感を得たいからではなく、彼らを更生させるという独善的な喜びに浸りたいからなのである。ご覧ください、われわれのリエントリープログラムはこんなにも生産的で、こんなにも人道的です。
問題は、このパフォーマンスをするには悪人が必要だということだ。今日、私はその四人に会った。悪人というより、生贄の気分を噛みしめている男たちに。バズ・ドライシンガー著「囚われし者たちの国 - 世界の刑務所に正義を訪ねて」(紀伊國屋書店)
刑務所の関係者の各々は、各々の視界に入る状況をどうにかするように善処しているのだが、実態として、出所後の囚人の居場所は結局、肉体労働などの過酷だったり社会的に劣位にある仕事につくか、それができないなら社会からはみ出すかしかない状況になっている。囚人は、人々が望まないが社会的に必要な仕事に押しつけるのに都合の良い存在なのだ。シンガポールには移民が多く、労働市場においても低賃金で過酷な仕事は移民に委ねられてきた。刑務所を通して、構造的な差別が制度や仕組みによって再生産されているのが見て取れる。
個々人からの視点から見れば、職員は囚人に更生のための努力を促し、再犯防止や社会復帰を真剣に考えて善処している。しかし、全体の構造に視野を広げると、それは社会全体の固定化された構造の中に吸収され、既存の枠組みを強化しているにすぎない。
例として刑務所を取り上げたが、同じ構造は様々な領域に現れ、普遍的な問題といえるだろう。人は現行の秩序を守ることに必死になり、その枠組みに沿って世界を理解する。その態度が私たちの視野や認識を大きく制約してしまい、私たちにVRゴーグルを装着させているのである。当然その状態では世界の驚きや美しさに触れることができず、悲しいことだ。しかし、この「VRを見ている自分」を認識し、その行動の変容が可能であることも人間の能力でもある。
実際に行動を変容させるレベルで理解することは非常に難しいことも認識しなくてはならない。ただ言葉で理解しても、実際の行動を変容させるわけでない。自由意志に従って自在に軌道を決めることができるわけではないのだから、「運命」のカオスを乗りこなす必要がある。VRゴーグルを外すには、わずかな自由意志FW
によって、秩序の外のカオスに身を投じるような選択をすることが要求される。それによって体験から無意識が学び、その積み重ねはやがて結晶化する。それは人間の美しさであり、それを描き出すことが人間讃歌なのだ。
「JOJO LIFE」からの脱線も多いような気がするが、以上の背景知識が本編および『ジョジョ』の読む一助になれば幸いである。